境内

  • 佛殿

佛通寺の中心の伽藍。須彌壇上には釈迦三尊像を祀る。
公式的な説法問答の場である法堂(はっとう)を兼ねる。
寛政の回禄(1796)の後、広島藩主浅野家の外護で文化6年(1809)に再建。
天井の雲龍図は文化7年備中松山の画工、菅南山筆。龍は仏法の守護神であり、また雲を呼び雨を降らせるところから火難除けの意もある。

  • 禅堂

 昭和初期、尾道出身の財閥で篤信家の山口玄洞氏の寄進によって建てられた坐禅堂。台湾檜の良材を使った堅牢な建築で、簡素ながら細部の意匠も精緻である。従来修行僧の禅堂として使用されてきたが、現在では大衆禅堂として活用されている。
この禅堂は「獅子窟」と称し、第三代管長 山崎益洲老師筆の扁額が前門に掛かっている。

  • 開山堂

開山堂は,もとは地蔵堂の後にあったが,現在では含暉院のもとの書院の中央部の奥に移され,書院が開山堂と改称された。
佛通禅師と大通禅師の倚像が安置され,向かって左側には松岩尼墓が安置されている。
内陣には創建当寺のものと考えられる木材が使用されている。この両側には位牌堂が設けられている。

  • 地蔵堂

含暉院の仏殿として建立された。様式は折衷様で,桁行三間,梁行三間の一重宝形造り,本瓦葺き(もとはかやぶき)である。

この地蔵堂の中央奥よち縦2メートル,横2メートル,高さ1メートルの唐様の須弥壇(しゅみだん)があり,中には木造地蔵菩薩坐像が安置されている。

  • 巨蟒橋

  現在の地図には佛通寺川と記されているこの渓流は、
  往来より「活龍水」と呼ばれ、佛通寺本寺の結界である。

  橋を渡る者は一切の俗塵を捨て去ろことが必要とされ、
  不心得者が渡ろうとすると、どこからともなく蟒蛇が現れて威嚇したという。

  • 山門

三門とも書く。佛通寺の正門。寛政の回禄(1796)の後、広島藩主浅野家の外護で文化年間に再興されたもの。巴紋は大檀越小早川氏の家紋。鷹の羽の打違いは浅野氏の家紋である。

  • 大方丈

佛通寺の本堂。儀式法要、法話説法の場。
方丈とは、もともと一丈四方(3m×3m)の居室の意で、住持の居間であったものが、後に大伽藍として建てられるようになった。維摩居士(ゆいまこじ)が毘耶離(びやり)城中の一丈四方の居室に三万二千の大衆を入れた故事を併せて考えたい。
この建物は「降魔殿(ごうまでん)」と呼ばれ、第三代管長山崎益洲老師筆の「降魔」の扁額が掛かっている。初めは毘沙門像が祀られていたが、現在は十一面観世音菩薩像が本尊である。

  • 童子観音像(どうじかんのんぞう)

大方丈に祀られる本尊、十一面観世音菩薩立像。頭部に十の小さな顔をもち、東西南北四維上下の十方をあらわす。
本体のお顔とを合わせて、十一面となり、宇宙世界のすべてを隅々まで見透す慈顔である。
観音様の慈悲のお力は、世界のどことして及ばないところはない、その広大無辺の姿を象徴。
もともと開山堂前に建つ朱塗りの多宝塔の本尊として安座されていたが、大方丈内に遷座された。
童子の顔を写したというこの童子観音像は、高村光雲工房の門派による作である。

  • 崑崗池

雪舟作と伝えられるがさだかではない。雪舟が当山に逗留したのはほぼ史実と考えられ、言い伝えではあるが、佛通寺山内の随所に足跡が残っている。

庭園研究の専門家によると、この池の構造はあまり原型をとどめていないという。ちなみに、中央の石橋は最近架けられたもの。向かって左手奥に「銀九瀑」の白糸が掛かり、清冽な水が絶えず注ぎ込む崑崗池は、佛通寺正門前の幽邃な境致を成しており、池辺を巡りながら雪舟ロマンのひとときを過ごしていただきたい。

  • 三安観音(みやすかんのん)

尾道出身の財閥で篤信家であった山口玄洞氏夫妻の奉納による。

「家・安かれ、身・安かれ、子・安かれ」

と過去、現在、未来の三世の安穏を祈願されたい。

  • 大庫裏(おおくり)
おおくり

庫裏(くり)とは寺院伽藍のひとつで、寺務所・応接室・典座(てんぞ=厨房)・食堂(じきどう)などがある建物。
「喜悦堂(きえつどう)」と称し、第三代管長山崎益洲老師筆の「喜悦」の扁額が掛かっている。

  • 佛通寺千年杉

「佛通寺千年杉」は、台風19号で倒された千年杉の古木である。